緒方町では大正11年から12年にかけて巨大なアーチ式石橋が作られました。その理由は豊肥線鉄道が緒方まで開業したことによります。それまでの悪路に頼る道路交通や不安定な大野川舟上げ交通に一大変革をもたらす交通革命でした。鉄道開業に伴い道路整備が急務とされたからです長瀬橋は大正12年(1923年)完成。原尻の滝の上流、上緒方地区の入口に架る橋です。長さ78.4mの6連のアーチ式石橋では豊後大野市内で一番長い石橋です。長瀬橋の碑文 「心機一転鋭意郷南の富源を開発し物資の運に産業の振興に教育の普及に大いに意を尽くし日進の大勢に順応し、以て地方文化の振興に努力せられんと事を望む」
昭和3年(1928年)完成。緒方川を挟み、右岸は柚木地区、左岸は寺原地区。背景の田園風景に映える3連のアーチ式石橋。幅3,7メートル
長さ53メートル。
侍女と乳母の悲しい死を伝える小松社と姥社。小松社と姥社は、緒方三郎惟栄伝説によって地域の人々に語り伝わっている。
神原の穴森神社に大蛇が住んでいた。一方清川に宇田姫という大変な美人がいた。ある時、立派な装いをした男が宇田姫を訪ねてきた。乳母と腰元の小松が宇田姫に名前を尋ねるように勧めたので、姫は何日も尋ねてみたが、その男は何も言わなかった。そこで母と乳母と小松の三人が麻をなって糸を作り、それに針をつけて姫に男の裾に刺すように言った。
八日目の晩、姫がその通りにすると、男は悲鳴をあげて逃げた。四人は糸を辿り後を追うと、神原の穴森神社の大きな洞穴に着いた。中には大蛇が呻いていた。何と針を刺したのは裾ではなく首元のところであった。
大蛇の姿を見ても姫は驚かなかった。大蛇は再び男の姿となり、姫に玉手箱を渡した。他の三人は驚き、慌てて逃げ帰ったが、小松が倒れたところを小松社、乳母が倒れたところを姥社と言い、今にその名を残しているのである。
徳田 白楊 (とくだ はくよう、本名:森下文夫)は、昭和初期のアララギ派の歌人である。アララギ派の天才と呼ばれ将来を有望されていたが、夭折した。
1911年(明治44年)5月28日、大分県大野郡上緒方村に森下虎三郎の二男として生まれる。1927年(昭和2年)、旧制竹田中学在学中に16歳で肋膜炎を患い、休学を余儀なくされる。1929年(昭和4年)、竹田市の教会でキリスト教の洗礼を受ける。
大分新聞に短歌を投稿したところ選者の土屋文明が「宝玉的天才歌人」と呼んで高く評価し、重い病気を持っていることを知って新聞に30首一挙掲載を行う。
1933年(昭和8年)1月19日、腎臓結核により21歳で死去。病弱でその短い人生の殆どを病と闘ったのではないかと思われるほど、病床の歌が多い。
1990年(平成2年)、徳田白楊顕彰の会「白楊会」が地元で立ち上がる。緒方町の隣町、竹田市の豊後竹田駅前には白楊歌碑が設置されており、緒方町の生家は記念館となっている。
豊明八幡社
上緒方村村史からの引用
豊明八幡社
位置 豊後大野市緒方町中野牛ケ迫
社格 元村社 昭和二〇年敗戦後社格喪失
祭神 神功皇后 応神天皇 大歳神 神岡像女命 菅原神二神
由緒 神功皇后三韓御征討の時、此処の池に辺りに仮殿を建て皇居を起こし給いて四王子ケ峰に登幸あられ天神を祈り給ふ。三韓平定御運を開き給ふを以て環御の時此の行宮を即開運の宮と勅号ありその後仁徳天皇の癸酉二年豊明社と有勅号皇居の節弓を引き神道を清進給任其例甲冑的射あり、是を武者祭と号す則例年旧正月初卯の日暁明方向き弓を引又例年十一月祭には祭日の前夜醴を醸し必ず是を供献し徹して後村民一同に戴く是は神功皇后この池に行宮を立ち給ひし時菰に一夜醸りの酒を造り諸神に献りしに依而起る事と云ふ。又御車の牛を此の野に於いて飼故に地名と成りて牛ケ迫と云う。その後寛仁二戌午年称豊明八幡大神と又緒方三郎惟栄敬崇有て田地寄附あり。その後豊後領主大友家代々信仰あり就中大友備前守親治この神社を崇敬し縷々戦いに利を得たり故に種々寄附あり、天正年中大友左京太夫義鎮入道宗麟島津兵庫頭義弘と戦う時本社その兵火に罹り此時の神主代々白川家の分流源顕貞島津の為に討死其の後室兵火の中より神体宮記をかくし持ち深山に身を潜め一統の世に又豊明神社を元の宮地に建立す実に天正一六年なり。又旧藩主中川家に於ても崇敬せられ縷々参拝及代参を立て寄附等あり、明治六年村社に列せらる。明治一一年八月当村字川端大歳神字古戸岡象女命字浦字横平菅原神を本社に合併す。
追録
豊明八幡社由緒として一説には招請詳ならざれども御一条天皇寛仁午戌年豊明八幡の賜勅額の由伝説あれば其の時の招請なるべきか。その後緒方三郎惟栄崇敬あり稲三百束寄附大友家にも代々尊信の社也。天正中為兵火神宝悉く焼失せしに其の時神主白川家の分流顕貞為島津家討死し顕貞の後室神体社記等を民間にかくしまかり在り候処後陽成院同十六子戌年大友義統社殿を再営せしと云伝也。
※三韓征伐 西暦200年頃
※四皇子ケ峰 傾山の事 神武天皇とその兄弟4皇子が祀られています
中野の城山(別名烏嶽城)は天正5年(1577年)堀相模守が築城しました。これは薩摩の島津氏の侵攻に備えるためのものです。天正14年(1586年)島津軍侵攻では武士とともに住民全員が城山に立て籠りました。しかし城主の堀相模守は落城して逃げる途中黍(きび)の切り株につまずいて討ち死に、女子供は島津軍の手によって日向に売られたという話です。しかし豊明神社のお内儀がその後、お金を払って連れ戻しております。又堀相模守の一統はこの事件から以後黍は栽培しないそうです。この時豊明け神社をはじめ大石・木野の神社仏閣は焼き払われましたが神社は再建されましたが寺院は再建されなかったといいます。令和元年ふとしたことから堀相模守の末裔である堀敦夫さんが堀相模守の墳墓を中野で発見いたしました。間違いなく相模守と彫り込まれております。これを機会にお祀りするそうです。
深田光霊先生生誕の地 木野
淡窓伝光霊流日本詩道会宗家 深田光霊先生は明治43年2月17日旧上緒方村木野で生誕されました。昭和2年大分県立竹田中学校(現竹田高等学校)から国学院大学高等師範部に進学。昭和13年日田の広瀬家の許可を得て、淡窓流二代家元を継承し淡窓伝光霊流日本詩道会を発足、初代会長・宗家となる。平成元年、永年教育功労に対して勲四等瑞宝章を授与される。平成15年7月7日逝去(享年93歳)
竹田市に詩聲館が設立され吟詠文化が発信されている。この中にはビデオルームが設置され、数々の遺品が展示されている。
右の碑は先生の青春の志を木野天満社に奉納してあります。書は河室ていさんとそのお弟子さんの書